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一葉後期作品は、明治二七年から明治二九年にわたって、雑誌に掲載される 作品群で、共に十二部である。明治二七年から二八年までに雑誌『文学界』に 掲載される作品には、『花ごもり』(明 27.2)『やみ夜』(明 27.5)『大つごもり』

(明 27.12)があり、『たけくらべ』(明 28.1~明 29.1)は雑誌に断続して七回 にわたって連載されるが、一括掲載されたのは、『文芸倶楽部』(明 29.4)であ り、一葉は改稿して掲載したのである。明治二八年に掲載される作品には、『た けくらべ』をはじめ、『軒もる月』(『朝日新聞』明 28.4)、『ゆく雲』(『太陽』

明 28.5)、『うつせみ』(『読売新聞』明 28.8)があり、『にごりえ』(明 28.9)と

『十三夜』(明 28.12)は共に雑誌『文芸倶楽部』に掲載された作品である。明 治二九年に掲載される作品には、『この子』(『日本の家庭』明 29.1)、『わかれ 道』(『国民之友』明 29.1)、『裏紫』(『新文壇』明 29.2)、『われから』(『文芸倶 楽部』明 29.5)がある。1

本研究は、塩田良平氏・和田芳恵氏・樋口悦氏によって編集された『樋口一 葉全集 第一巻』(筑摩書房、1974.3)、『樋口一葉全集 第二巻』(筑摩書房、

1974.9)の定稿の本文に即して考察を行いたいと考える。一葉後期作品を対象 として研究するが、研究課題と関わる家族問題や恋愛問題を取り扱う『やみ夜』

『たけくらべ』『軒もる月』『にごりえ』『十三夜』『われから』のテクストを中 心に考察したいと思う。従来の研究を踏まえた上で、一葉作品に一番取り扱わ れる女性の社会的抑圧の問題と、ジェンダー的な女性的抵抗の意味合いを考察 するために、女性と家庭の外部に現れる制度との連帯、あるいはジェンダーの 意味において女性と男性との交渉に窺われる主体性の表現などに焦点を当て、

女性の抵抗意識、および女性が求めている自我の主体としての拠り所を探究し ようと思う。方法論について、「幻想」という視点を通して、女性の反抗表現 を論じてみたい。日本の思想家である吉本隆明は、著書『共同幻想論』におい て、人間が世界と関係する観念の在り方にある「共同幻想」(国家とか法とか いうような問題)、「対幻想」(男女の関係の問題)、「自己幻想」(文学や芸術に

1 「第一部 作品篇」『樋口一葉事典』(岩見照代・北田幸恵・関礼子・高田知波・山田有策編、

おうふう、1996.11)を参照のこと。p.12-79

おいて示される個的幻想)といった三つの幻想領域を提起した。2幻想領域で ある「共同幻想」と「対幻想」と「自己幻想」はどういうような観念意識なの だろうか。吉本隆明は『共同幻想論』の序で以下のように定義している。

「自己幻想、あるいは個体の幻想でもいいですけれども、自己幻想とい う軸を設定すればいい。芸術理論、文学理論、文学分野というものはみ んなそういうところにいく。(略)共同幻想も人間がこの世界でとりうる 態度が作り出した観念の形態である。〈種族の父〉(Stamm-vater)も〈種 族の母〉(Stamm-mutter)も〈トーテム〉も、単なる〈習俗〉や〈神話〉

も、〈宗教〉もや〈法〉や〈国家〉と同じように共同幻想のある表れ方で あるということができよう。人間はしばしば自分の存在を圧殺するため に、圧殺されることを知りながら、どうすることもできない必然に促さ れてさまざまな負担を作り出すことができる存在である。共同幻想もま たこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の 幻想と逆立する構造をもっている。そして共同幻想のうち男性また女性 としての人間が生み出す幻想をここではとくに対幻想とよぶことにし た。」3

つまり、共同幻想は、個体としての人間の心的な世界とそれが作り出した観 念世界、すなわち、共同性としてこの世界と関係する観念のあり方のことを意 味している。たとえば、政治、法律、国家、宗教、イデオロギーなどの共同観 念である。また、対幻想は「家族の本質」4であり、社会の共同幻想とも個人 の持つ幻想とも違って、いつも異性の意識でしか存在し得ない幻想性の領域を さすという意味である。たとえば、男女、夫婦、親子、兄弟姉妹といったよう な一対一の関係となる対幻想である。また、それらの相関係といえば、上野千

2 吉本隆明『共同幻想論』、角川書店、1982.1、p.25

3 吉本隆明『共同幻想論』、角川書店、1982.1、p.25-37

4 吉本氏は〈家族〉の本質と対幻想の関係について、次のように述べている。〈対なる幻想〉

が生み出されたことは、人間の〈性〉を、社会の共同性と個人性のはざまに投げ出す咲くよう を及ぼした。そのために人間は〈性〉としては男か女であるのに、夫婦とか、親子とか、兄弟 姉妹とか、親族とか呼ばれる系列のなかに置かれることになった。言いかえれば〈家族〉が生 み出されたのである。だから〈家族〉は、時代によってどんな形態上の変化をこうむり、地域 や種族でどんな異なった関係におかれても、人間の〈対なる幻想〉にもとづく関係だという点 では共通している」(吉本隆明『共同幻想論』、角川書店、1982.1、p.182)

鶴子氏は、次のように説明している。

「自己幻想・共同幻想・対幻想のそれぞれが「幻想」であるのは、そ れがただ意識のあり方にすぎないからである。自己幻想とは、「それ以上 分割できない」個人、つまり身体という境位に同一化した意識の謂にほ かならない。しかし意識は、身体のレベルをこえて同一化の対象を拡張 することができる。たとえば「妻子のため」に外で「七人の敵」と闘う 男は、家族に自己同一化している。「天皇陛下万歳」と呼んで死ぬ兵士は、

自己同一化の対象をオクニのレベルにまで拡大している。この種の自己 拡張は、自己幻想の同心円的拡大によっている。同一化対象のマキシマ ムは宇宙との自己同一化だが、その時「宇宙の中にわたしがいる」と言 っても「わたしの中に宇宙が孕まれている」と言っても同じであろう。」

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そうすれば、自己幻想と共同幻想の関係は逆立するが、しばしば家族や国家 に自己同一化して、共同幻想の範疇に吸収され、内包される。共同中心的なも のだから、一方から他方へと横すべりしてしまうのである。その家族に自己同 一化している自己幻想の拡大は、秋山さと子氏が提起される「家族幻想」6

5 上野千鶴子氏は、自己幻想と共同幻想の関係は共中心的なものであり、対幻想は楕円のよう に複中心化して安定すると指摘している。その模式は図 1 のように示している。自己幻想・共 同幻想・対幻想の関係を図 2 のように示している。(上野千鶴子『女という快楽』、勁草書房、

1986.11、p.3-6)

(図 1) (図 2)

6 秋山さと子氏は、個人と家族という集団全体の関係に生み出された「家族幻想」という観念 を提起した。氏は次のように指摘した。〈家族という最小の集団の中では、対人関係としても っとも接している時間が長いだけに、ナマの自分がそのまま出やすいといえます。それと同時 に、お互いが抱いている幻想をそれぞれ相手に投影しやすいのです。そして時には、家族のみ んながそれぞれの幻想の中だけで生活しているといったことにもなりかねません。それだけに、

家族の中での幻想と現実の区別をきちんと、自分なりに弁えていかないといけないともいえる のです。(秋山さと子『「家族」という名の幻想』、双葉社、1998.5、p.54)〈家族とは、人間に とって最も根源的な幻想であって、しかも同時に現実でもあるのです。そこで幻想と現実を行

いう概念で捉えることができよう。吉本隆明氏によると、対幻想の関係によっ 房、1986.11、p.6)

8 上野千鶴子氏は、〈対幻想は共同幻想と拮抗し、無限に遠ざかろうとする。もっと卑近な言

て、自我のアイデンティティが「家族幻想」と「恋愛幻想」の両者の間に拮抗 し、動揺しつつあるのかという問題を中心に探究しようと思う。一葉の後期作 品における家庭内にいきる少女(『やみ夜』・『たけくらべ』)や人妻(『軒もる 月』・『十三夜』・『われから』)、あるいは家庭外に生きる娼婦(『にごりえ』)と 差異化される生に即して、家族幻想によって支えられる〈個〉と相対化される

〈他者〉という一対一の関係(恋人などもその範疇に入れられる)を中心とし て分析し、そこから現れる自意識と行為表現を考察してみたいと思う。また、

作品論からさらに作家論へ進んで、作者の言説あるいは作品内部で垣間見せる 同時代言説との絡み合いにも及んで、触れていきたい。

なお、第二篇において、まず、明治時代の社会制度という時代背景から作品 中の女性たちの引き受けた抑圧の中身を検討する。それぞれの作品の中で、女 性の社会的地位、すなわち身分や職業から招かれた封建道徳及び家父長制の不 条理や、近代日本の職業に対する性的差異を論じ、場面ごとにおいて、相対化 された人物たちの視点に注目しながら、テキスト内の言葉、会話の意味を分析

なお、第二篇において、まず、明治時代の社会制度という時代背景から作品 中の女性たちの引き受けた抑圧の中身を検討する。それぞれの作品の中で、女 性の社会的地位、すなわち身分や職業から招かれた封建道徳及び家父長制の不 条理や、近代日本の職業に対する性的差異を論じ、場面ごとにおいて、相対化 された人物たちの視点に注目しながら、テキスト内の言葉、会話の意味を分析