3.3 「今宵」の離婚―〈父の娘〉への回帰願望
3.4 家族共同体に生き通す従属的身体
お関が親の〈娘〉に戻りたいといったとき、父親に「馬鹿、馬鹿、其樣な事 を假にも言ふてはならぬ、嫁に行つた身が實家の親の貢をするなどゝ思ひも寄 らぬこと、家に居る時は齋藤の娘、嫁入つては原田の奧方ではないか、勇さん の氣に入る樣にして家の内を納めてさへ行けば何の子細は無い、骨が折れるか らとて夫れ丈の運のある身ならば堪へられぬ事は無い筈」と叱られた。いわば、
「家に居る時は齋藤の娘、嫁入つては原田の奧方」「堪へられぬ事は無い筈」
という身分意識、道徳規範を受け入れて育ったお関は、原田勇と結婚して以来、
自分の内面と衝突しつづけ、「戻らうか、戻らうか、あの鬼のやうな我良人の もとに戻らうか、彼の鬼の、鬼の良人のもとへ、ゑゝ厭や厭やと身をふるはす」
といったように原田家の妻の役に対し、拒絶感を持っている。しかし、何とも 考え直して離婚の決意を固めた後に実家を訪問したというお関を迷わせたも のは何だったのであろうか。父親の説得の言葉は、お関がすでに予想していた 内容であろうか。実家の格子戸の前に立った時点におけるお関の迷い事とその 後の父親の言葉と対照させながら、父親の説得の有効性を考察してみる。まず、
お関の語りから検討してみる。
「何の顏さげて離縁状もらふて下されと言はれた物か、叱かられるは必 定、太郎といふ子もある身にて置いて驅け出して來るまでには種々思案も し盡しての後なれど、今更にお老人を驚かして是れまでの喜びを水の泡に
させまする事つらや、寧そ話さずに戻ろうか、戻れば太郎の母と言はれて 何時何時までも原田の奧樣、御兩親に奏任の聟がある身と自慢させ、私さ へ身を節儉れば時たまはお口に合ふ者お小遣ひも差あげられるに、思ふ まゝを通して離縁とならは太郎には繼母の憂き目を見せ、御兩親には今ま での自慢の鼻にはかに低くさせまして、人の思はく、弟の行末、あゝ此身 一つの心から出世の眞も止めずはならず、戻らうか、戻らうか、あの鬼の やうな我良人のもとに戻らうか、彼の鬼の、鬼の良人のもとへ」(上・p.96-97、
下線筆者)
つまり、お関は、「何の顏さげて離縁状もらふて下されと言はれた物か、叱 かられるは必定」と予想したので、すでに離縁状をもらえないはずであると考 えた。それに、離婚すれば、「太郎には繼母の憂き目を見せ、御兩親には今ま での自慢の鼻にはかに低くさせまして、人の思はく、弟の行末、あゝ此身一つ の心から出世の眞も止めずはならず」ということである。一人の決断によって 両親に失望させ、太郎、弟に不幸させる結果をもたらすことを予想している。
ここから、近代的な家族制度のもとで女性の生は、個人の生を生きることでは なく家の一員として家のために生きることを意味したことがわかる。次は、父 親の語りから検討してみる。
「いや阿關こう言ふと父が無慈悲で汲取つて呉れぬのと思ふか知らぬが 決して御前を叱るではない、身分が釣合はねば思ふ事も自然違ふて、此方 は眞から盡す氣でも取りやうに寄つては面白くなく見える事もあらう、
(略)夫を機嫌の好い樣にとゝのへて行くが妻の役、表面には見えねど世 間の奧樣といふ人達の何れも面白くをかしき中ばかりは有るまじ、身一つ と思へば恨みも出る、何の是れが世の勤めなり、殊には是れほど身がらの 相違もある事なれば人一倍の苦もある道理、お袋などが口廣い事は言へど 亥之が昨今の月給に有ついたも必竟は原田さんの口入れではなからうか、
七光どころか十光もして間接ながらの恩を着ぬとは言はれぬに愁らからう とも一つは親の爲弟の爲、太郎といふ子もあるものを今日までの辛棒がな るほどならば、是れから後とて出來ぬ事はあるまじ、離縁を取つて出たが
宜いか、太郎は原田のもの、其方は齋藤の娘、一度縁が切れては二度と顏 見にゆく事もなるまじ、同じく不運に泣くほどならば原田の妻で大泣きに 泣け、なあ關さうでは無いか、合點がいつたら何事も胸に納めて知らぬ顏 に今夜は歸つて、今まで通りつゝしんで世を送つて呉れ、お前が口に出さ んとても親も察しる弟も察しる、涙は各自に分て泣かうぞ」(上・p.106-107、
下線筆者)
ここからみると、父親の説得には、①「身分が釣合はねば思ふ事も自然違ふ て」「身がらの相違もある事なれば人一倍の苦もある道理」、②「夫を機嫌の好 い樣にとゝのへて行くが妻の役」「何の是れが世の勤めなり」、③「間接ながら の恩を着ぬ」、④「親の爲弟の爲、太郎といふ子もあるものを今日までの辛棒 がなるほどならば、是れから後とて出來ぬ事はあるまじ」、⑤「離縁を取つて 出たが宜いか、太郎は原田のもの、其方は齋藤の娘、一度縁が切れては二度と 顏見にゆく事もなるまじ」といったことである。いわば、父親はお関の「人一 倍の苦も」身分の相違によるものであると考えられる。父親にとって、「妻の 役、表面には見えねど世間の奧樣といふ人達の何れも面白くをかしき中ばかり は有るまじ」という妻の役に当たる辛さが共有するものであり、しかもその役 は「世の勤め」という人間としてやるべき役目である。そして、一旦人妻にな ったら、妻の役を果たさなければならないという道徳規範に即すべきであると 言い聞かせた。また、弟が原田勇の恩を着るので、義理としていえば、離縁は あるまじきことになる。さらに、今まで辛抱してきたので、これからも親のた め、弟のため、太郎のため辛抱できないことはなく、離縁すれば、「太郎は原 田のもの、其方は齋藤の娘」とあるように、太郎と会うことはできないと考え た。いわば、父親は娘の子供に対する感情を配慮しながら、道徳倫理に従うべ き、家の倫理を守るべき、といった倫理観念に強く根ざしている。
そして、お関の父斎藤主計は没落した士族であり、斎藤家の復興も潜めに望 んでいると考えられる。それが託されているのは、次期家長である亥之助であ る。菅聡子氏によると、「昼は勤めに出、夜は夜学に通う亥之助の、将来の立 身出世がかなうか否かに斎藤家の将来もかかっているのだ。この彼の将来にと って、奏任官原田の力は絶大である。斎藤家の現在も未来も、原田を後ろ盾と
した亥之助にかかっているのである。このためには、お関が原田の〈妻〉であ ることが必須条件であることは言うまでもない。斎藤家にとって、お関は原田 の〈妻〉としてのみ存在意義があるのである」というようである。24こうして、
父親はお関に家のため、家族のための自己犠牲をする必要であることを暗示し ている。個体を犠牲することは、家という全体を保存する没個人的な自然的欲 望の充足を目的とするものである。それで家族という自然共同体は、「利己的 な団体」25という性格を持ち、家族の成員としての個人の犠牲は、家族的集団 のエゴイズムの充足のための行為なのであることがわかる。村上益子氏は、「個 人の自然性は否定されても家という自然性は肯定される。この家の自然性への 個人の自然性の解消は、日本人特有の愛惜感と虚無感のなかで美的な情緒に高 められる」と言っている。26つまり、父親の理論からみると、娘の家のために 献身することに対して、家という全体を保存する必須条件であり、〈妻〉〈母〉
〈娘〉として存在意義があると同時に「道徳」27として肯定しているのである。
そして、斎藤家の父の倫理は、「家」が実体的な価値としての家族共同体の利 己心によって保護され、家族の成員として家の共同利害に忠実すべき、個人を 抑圧する全体的集団の価値であることが示されている。
しかし一方、お関の思う事と父親の理論を合せてみると、お関はすでに父の 言う夫の機嫌をとって、家族のために辛抱すべきだという「妻の役」を強く意 識していたことがわかる。今までお関が原田勇と離縁しなかったのは、「何に も知らぬ彼の太郎が、片親に成るかと思ひますると意地もなく我慢もなく、詫 て機嫌を取つて、何でも無い事に恐れ入つて、今日までも物言はず辛棒して居 りました」というように、子供のために耐えてきたのである。原田の妻として
24 菅聡子『時代と女と樋口一葉』、日本放送出版協会、1999.1、p.213
25 家という全体は、外に対しては、それ自身ひとつの欲望の充足を目的とするものである以
25 家という全体は、外に対しては、それ自身ひとつの欲望の充足を目的とするものである以